つづき の話です。。

40人が共有されている土地。

そもそも、なぜそのようなことになったのか、所有されている方のひとりからお話を聞くことができました。

お話を聞かせてくれたのは、80歳くらいの老婆の方でした。

むかしむかし。。。という感じで話が始まりました。

この土地。その方が若かった頃、国が払い下げた土地(雑木林)だったとのことでした。当時、米は貴重?だったこともあり、この部落の住民が、みんなでお金を出し合って、米を作るために土地を購入されたそうです。だから40人の共有名義になっておりました。

そうだったのか。。。

当時、この漁師町の住民が、漁の合間にみんなでこの土地の木を伐採し、土地を整地し、開墾された話をされておりました。

大変でしたよ。。。と老婆の話は続きました。

その田んぼ、部落のみんなで米を収穫し、生計の一部に充てていたということでした。

それから半世紀。時代は変わります。片手間の米作りも生計を補うことにはならなくなり、いつしか、放置された荒地に変わり果ておりました。

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私たちがこの土地に、出会ったのは昨年の10月。そんな部落の方々の思い出がある土地。

この地に立ち、先人の方々の苦労を感じつつ、形を変えてまた日の目を浴びる土地に蘇らせるのは、私の使命でしょうか。。。

不動産という仕事冥利に尽きます。。

3分の1の生存者と、すでに亡くなっている3分の2の方たちの相続人の方たちとの接触、来週から始まりそうです。根気強く交渉する気持ちでおります。

ここで一句。

春風や闘志抱きて丘に立つ。

すいません。高浜虚子の句、パクリってしまいました。

田中社長、しばらく函館張り付きになると思いますが、ご家族のみなさんご協力の程よろしくお願いします。

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